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理事長 上辻 浩夫
平素は、大阪府医師信用組合をご利用いただき、厚く御礼申し上げます。
当組合は、「金融面を通じて地域医療の発展に資すること」を使命とし、医療に従事される皆様方の経済的基盤の安定に寄与することを目的に、昭和26年3月、大阪府医師会代議員会に於いて設立されました。
お陰様で、これまでの業績は、組合員の皆様方に経営方針やその事業活動についてご理解いただき、安心で安全な信用組合として、順調に業績推移できましたこと、ここに深く感謝申し上げます。
今後共、健全経営の維持と医療業界の発展を目指し、当組合の新役員及び職員一同頑張って参りますので、より一層のご支援、ご愛顧を賜ります様お願い申し上げます。
昭和25年9月3日、ジェーン台風が近畿一円を襲った。
この時に大阪西部地区の受けた被害は目を被うもので、中でも臨海地帯の港区、西淀川区、大正区、福島区、北区の各地では、多くの診療所も被害を受けて、どっぷりと水に浸かった。診療カルテが流れ出してしまったほどと語られる。
被害を受けた診療所等の復旧が、急がれたことは言うまでもないが、それを助けるのに重要な背景を担う「大阪府医師信用組合」設立への動きが起こった。
大阪府医師会では、直ちに災害対策本部を設けて、救護班の派遣、さらに郡市区医師会に呼びかけ義援金の募集を行った。
被害を受けた会員に送ったのである。
けれども、診療所の復旧、医療器械の整備など資本を伴ういわば根本的な問題は、医師会の力で対応しきれるものではなかった。
大阪府では台風の被災に対し、中小企業への災害融資を決定したものの「医師」は府の融資対象から除外されるという不合理ともいえる事実もあった。
当時の一般の金融情勢が、第二次世界大戦の敗戦からようやく復興へのキッカケを掴んだばかりで、国の政策としても、産業優先、経済優先の施策であったのも災いしていた。
これは遺憾なことであった。金融対象から除外されたのは、医師に対し「経営内容が比較的把握しにくいからだ・・・」というのである。
多くの被災者、関係者が『実に冷淡なものであった・・・』と語るにおよんでいる。
『市中銀行における医師への融資順位が、ビリというのを信じれるかネ・・・』つきるところ、とても簡単にはカネを貸してくれる状況ではなかったのである。
あまりにも難局にたった医師会であった。尽きるところ、災害を免れた医師会員の「相互扶助の心遣いに頼らざるを得ない」という窮地であったのだ。
『市中銀行が、そんなにもカネを出し渋るなら医師たちが力を合わせ、医師による、医師のための金融機関を持とう・・・』という声がおのずと切実になったのである。
そしてこれは、当時の大阪府医師会会長の井関健夫先生を中心に、極めて精力的に進められた。 「大阪府医師信用組合設立の件」は、昭和26年3月23日、大阪府医師会代議員会で、衆望を担って正式に決議決定されたのである。
任期
理事:令和6年6月26日~令和8年総代会終結時 監事:令和6年6月26日~令和10年総代会終結時
役 職 名 | 氏 名 | 所属医師会 |
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理事長 | 上辻 浩夫 | 豊中市医師会 |
副理事長 | 巽 壽一 | 大阪市東淀川区医師会 |
専務理事 | 深見 達雄 | |
常務理事 | 上野 豊 | 茨木市医師会 |
理 事 | 武井 公雄 | 泉佐野泉南医師会 |
理 事 | 飯田 稔 | 高槻市医師会 |
理 事 | 山片 重法 | 河内長野市医師会 |
理 事 | 四宮 眞男 | 吹田市医師会 |
理 事 | 佐久間 靖博 | 浪速区医師会 |
理 事 | 中西 忍 | 布施医師会 |
理 事 | 増田 博 | 羽曳野市医師会 |
理 事 | 樋口 洋子 | 大阪市大淀医師会 |
理 事 | 西川 正治 | 堺市医師会 |
理 事 | 杉本 圭相 | 近畿大学医学部医師会 |
理 事 | 阪本 栄 | 大阪狭山市医師会 |
理 事 | 中山 功 | |
監 事 | 北村 俊雄 | 都島区医師会 |
監 事 | 塩田 正明 | 泉大津市医師会 |
監 事 | 中井 一夫 |
名称 | 大阪府医師信用組合 |
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本店所在地 | 大阪市天王寺区清水谷町19番14号 |
創立 | 昭和27年(1952年)12月 |
出資金 | 3億47百万円 |
預金 | 896億円 |
貸出金 | 541億円 |
組合員数 | 6,453名 |
店舗数 | 2店舗 |
常勤役職員数 | 33名(うち役員3名、男子職員17名、女子職員13名) |
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